エトランジエ

一杯の珈琲と一本の煙草とカナビスと

あまりにちっぽけな存在だから

昨日までずっと集中する作業をしていたし、今日は金曜日でほぼ週末だから体力の使う作業はもうしない、ミスしても困るからね。

 

そうそう27歳になって2週間ちょっと。

 

ふと自分の親しい人が勤めている企業の株価下落のニュースを見つけた。

 

そこに勤めていない私の生活にはびた一文も影響はないのだけれど(たぶん)、もし自分がとある企業に勤めていて株価が下がって、株主から経営方針を変えろというお達しに屈する形で事業縮小して、自分の働く場所が無くなったら?

 

株主ほどの影響力を持っているわけでもなし、ただ生きるのにはお金が必要だから仕事がいる都合で働かないわけにもいかない。

 

仮に強制的に辞めさせられたとして自分に何ができるの?

 

というようなファンタジーを一瞬想像する。

 

文字通り先が不透明になっていた先月、自分がいなくても社会は回っていくし、社会の中で大きな力を持てないちっぽけな存在なんだなということを考えていたけど今回も改めて感じた。

 

社会を動かすほどの何かを成し遂げたいなどとは決して思わない、せめて自分の手の届く範囲では不自由なく過ごしていたい。

 

人生は短いのだから、自分の力の及ばないことに喜憂することなく直近のものに幸せを感じ取る能力を身につけたい。

 

昔教授の言った、「運命決定論」を少しずつ体感して理解しつつある感じがする。

絶対的且相対的自己

ある友人と電話をして、今自分はとある分岐点に来ていることを自覚した。

 

「何者」かになるのか、ならないのか。

 

どちらを選んでもきっと後悔するし、正解である。

 

私は前回の記事で反抗するのが私の生き方だと書いたが、それは逆を返せば反抗する対象に依存しているということで、その理論の幼稚さや生産性の無さには数年前から薄々気付いていた。

 

反抗する対象が無い場合、自分は一体「何者」なのか。

 

そもそも「何者」かになりたいのか。

 

時間をかけて熱心に取り組めばいずれ絶対的自己を確立し「何者」かになれるのではと思ったりもするが、それは取り組む資格があればの話である。

 

とにかく今は時の流れに身を任せ、必要な時だけ舵を大雑把に切れば良いのかもしれない。

追・26年の人生を振り返って

私にとって「反抗」がどのような意味を持つのか考えてみた。

 

まず前提として、私は既存のルールに乗って生きていくことにアレルギー反応のようなものを持つ。

 

なぜか。

 

ふと思ったのだ、

 

ルールに乗って生きていくことに「自分の生き方を深く考えず機械的に漠然とした人生を歩んでいく」印象を持っていて、それは人間としての尊厳を自覚して生きることに対しての責任の放棄のように感じたのだ。

 

もちろんそれに当てはまらない人間はいるだろうし、私がこの考えに至ったのは比較的恵まれた人生を歩んでいたからだと思う。

 

それでもやはり私は世間のルールに反して生きていくことで、自分の人生に責任を持って生きる実感が欲しかったのだ。

 

何も叶えたい夢があるわけではない。

 

生き方を自分で決めたいという欲求が、私をそうさせているのだ。

26年の人生を振り返って

あと1週間近くで誕生日を迎えるので、今までの人生を振り返ってみる。

 

今までを省みて、性格こそ変わったと思うけれど何かしらアクションを起こす時、共通した信念が私の中にある。

 

「反抗」

 

だ。

 

例えば、高校生の時に受験勉強こそ真面目にしたが「いい子」でいることの期待に反抗するためバンドを始め、大学時代は勉強をサボってバンドに打ち込み、

そのまま大学院に進学したものの「皆と同じレールを走っている自分」にぼんやりとした不満を感じてレールに反抗するため海外留学をし、

果ては「就活を通して皆と同じ定規で測られる」ことに対してメラメラと燃え上がる反抗心に従って就活をせずに海外の大学へ進学した。

 

これが結果的に良かったかどうかというと、世間で一般とされるレールにのっとっていれば味わうことのなかった苦労や不安を感じずにはいられない。

 

今のプロジェクトや将来のプランが崩れたらどうしよう、一文無しの無職になってしまうという考えが常に付き纏うのは非常にストレスフルである。

 

それと引き換えに、いちプロジェクトをやり遂げた後は達成感が大きいし、最後まで自分を信じてやりきれたと自信につながる。

 

自分の「反抗」心に従うしか自分が自分でいられないという性質を非常に恨むし、それと同時に勇気のある選択ができる自分を誇らしくも思う。

 

どうやら私が私であるためには、私の中のドグマが叫ぶ反抗的なわがままに付き合ってやらなければならないらしい。

 

私が私の存在を許し、愛せるように。

あべこべな感情

ああ、いい具合に人生がぶっ壊れてきている。

 

ともすれば今まで積み上げてきたものが全て風前の灯となりそうな状況であるが、今はそんなことどうでも良い。

 

こんなに強烈に生きてる実感が湧いている。

 

精神的負担は非常に大きい。

 

とても一生耐えられるものではないが、限界を超えなければ一時的に耐えるのはおそらく大丈夫だ。

 

今の自分を嘲笑し、悲観し、観察し、楽観している。

 

笑えるし、号泣もできる。

 

私がゆっくり壊れてきている。

アーティスト

自分はアーティスト気質だと思う。

 

感情が昂ったときに発散する手段が絵だったり音楽だったりする。

 

お酒や異性の体に溺れたりはしないな。

 

タバコは嗜むけど。

 

自分を取り巻く環境に傷つけられて、もっといえば自分を程よく痛めつけられる環境に自らを置いて、

 

ふとしたときに感情が噴火したときの破壊衝動に近いものを例えば音楽にぶつけながらステージで演奏できりゃあ、

 

とても生きてる実感がある。

 

不思議と周りの環境が滞りなく回り回って万事うまくいっていて、むしろそれ以上にポジティブなエネルギーがふつふつと湧き上がっているときは、

 

絵や音楽にぶつけるものはないしアーティストとしての自分は一旦棺桶の中に眠る。

 

この点で私はお金の稼げるアーティストではない自覚はあり、でも芸術は私の一部なので切り離さないようにするための生活を求めて東京を出た。

 

海の外に出て、わかった。

 

私は不幸がないと死んでしまう、

 

アーティストの自分が棺に眠ってしまうから。

 

私はそれと同じくらい幸せがないと死んでしまう、

 

アーティストでない部分の自分がその不幸に無防備で耐えられないから。

 

どれも私なのだ。

 

全て私だ。

 

なんだかな、ジャンクフード中毒みたいで笑った。